信仰―法話コーナー

法話

ものの見え方・感じ方、心のあり方・捉え方【2016年11月の法話】

先日、弥山に近畿地方よりご祈祷に来られた方がありました。その母娘は、遠方ということもあり、だいたい一年に一度のお参りだと話されていました。私がご祈祷の準備をする間、お二人はお堂に入る前も、蝋燭をあげる間も、お賽銭を打つ時も、「三鬼さま、ありがとうございます」とその都度、感謝の言葉を口にしておられました。三鬼大権現さまに対する、その謙虚な姿勢や心に、こちらが恥ずかしく思うくらいでした。それではいけませんので、私もそのお心を三鬼さまにお伝えできるようにとご祈祷を致しました。

このとき感じました。いかなる神さまも仏さまも、私たちの方を向いてくださっている、私たちの声を聞いてくださっている、私たちの想いを汲んでくださっている。しかし、その神仏に向う私たちに、謙虚な気持ち、感謝の気持ちがなければ、その御心を感じることができないのではないか。思い通りにならないと愚痴を言ってしまい、願いが叶わないと恨んでしまう。一方、謙虚に感謝の気持ちを持ち続ける人にとっては、その神仏のありがたさは言葉では表されない、けれど肌や心、全身で感じることができる。そうすると、ただ感謝の気持ちと感謝の言葉のみがある。仮に上手くいかなかったとしても、次に繋げようとする。怒りや愚痴の気持ちは決してない…。神仏に対峙する、手を合す者の気持ちや心のあり方で結果は変わってくるのではないか。

仏教には、古来インドより様々な学説がありました。そのなかでも、現在にまで伝わる大乗仏教のなかにも息づいているのが、中観や唯識といった学説です。中観には二(に)諦(たい)説という考えがありますが、これはものごとには「二つの真理」があるとするものです。それは、ものごとを「ありのまま(如実)に見る」のか、それとも「あるもの(仮構されたもの)として見る」のか。同じものを見ても見え方は違うのです。また、唯識では三(さん)性(しょう)説という考えがありますが、これはものごとに「三つのあり方」があるとするものです。わかりやすい例えでは、暗闇で縄を見た時、それを蛇と誤認する人もいれば、縄と認識できる人もいる、さらにはその縄は麻からできたものだと知る人もいる。こうした学説の一々を論ずる知識は私にはありませんが、いずれにしても、ものごとは見る者(その認識)によって見え方が違うというものです。

宮島の弥山は古来より信仰の山であります。行く道々に神さまや仏さまが祀られていますし、巨岩に見られるように山そのものが「カミ」であり、島そのものが「カミ」であります。同じ草木を見ても感じ方が違うように、同じ神さま仏さまの前を通っても、気付かずに通り過ぎる人もいれば、手を合わせてお願いごとをする人、また深々と感謝の気持ちを伝えていく人もいます。願いが叶えば感謝の気持ちが湧くはずですが、その気持ちを忘れてしまう人もあるでしょうし、ひたすらに感謝をして頭を下げる人もあるでしょう。

同じものを見ても違う見え方をする、ものごとは如実にあるのに見る側の捉え方で変わってくる。同じ神仏に手を合わせても違う感じ方をする、神仏は常に私たちに向いてくださっているのに手を合す者の心で捉え方は変わってくる。そうであれば、やはり謙虚な気持ちで「ありがたい」と思える心を持つ方がより幸せに暮らせるのではないでしょうか。弥山に参拝された謙虚な姿のご信者さまから、その大切さを学びました。

合掌

(日高誠道)

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