信仰―法話コーナー

法話

神様はどちらに?【2015年12月の法話】

京都は宇治の里、平等院鳳凰堂より宇治川を挟んだ対岸に位置する宇治上神社。その起源は、神託を受けた醍醐天皇が延喜元年(九〇一年)に社を建てたことによるという説があるが、定かではない。しかし延長五年(九二七年)に編纂された全国の神社一覧である延喜式神名帳には既にその存在を確認することができる。

さて近年、世界遺産にも登録さたこの神社が作った参拝者向けの紙がネット上で話題になっています。「小さなお子様をお連れの親御様へ」と題したメッセージ。お守りなどが並んでいる棚のあたりに、神社の説明文などとともにA4サイズの紙が置いてあります。そこには、こう描かれています。
「ここは神社です。皆様が心を静めてお参りをされる場所です。テーマパークでもファミリーレストランでもありません。サービス業ではないのです。『お客様は神様』の自論は通用しません。本当の神様は目の前においでです。当然、不敬な行動は叱ります。親御さんがお子様をしっかり御監督なさって下さい。お子様を叱るのは、親の責任ですし、親が不行き届きで、周りの人に叱っていただいたなら、逆切れではなく、『ありがとうございます』です。自分本位な考えの大人になられないように、正しい教育で共にお子様の健やかなる成長を見守りましょう」

この貼り紙、どんな思いで書かれたものなのか? 神職の方の話では、
「世界遺産になってから参拝者も増えています。そんな中、私たちが子どもを注意すると、逆にその親から苦情を言われるケースが増えてきたためです。他の参拝者のためにも、守っていただきたい一般的なことを書きました」
「子どもの頃にやりたいことをやって、そのまま大きくなったら大変なことになりかねません。子どものうちに、しっかりと親や周囲の大人が教えることが必要だということが伝わればと思っています」 「子どもたちは宝です。健全に育つように周りの大人が見守っていける、そんな社会であったらいいなと思います」

北条泰時が貞永元年(一二三二)に評定衆に命じて編纂させた「御成敗式目」の第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」につづいて以下の文が記されています。

一、 神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
神は人の敬 (ケイ)によりて威(イ)を増し
人は神の徳(トク)によりて運(ウン)を添(ソ)ふ

いかなる神も人間の崇敬をうけてこそ、その御威光を輝かすのであり、御神意を高めるのは人の敬の力であります。そしてその人が人としての運、人としての生命を与えられるのは、神の徳によってであるという意味です。神と人との密接な関係が的確に述べられている言葉です。

神社を守り、おまつりを盛んに、にぎやかにすることは、神のご威光を高めることであり、それはとりもなおさず私たちがより大きな神の恵みを蒙ることにほかなりません。とあります。

昨今、「私は無宗教です。」と平然と言う方が増えたように思える。無宗教であるが故に何をしても良いという風潮になっていることに危惧を覚える。宗教は目に見えるものではない。しかし、目に見えないものこそ大切にすべきことがあるのではないかと思う。相手を好きになったり心配したり、思いやる心などがそれである。

精神論を看破され物質至上主義に移行して七十年。程よいバランスで生きていくということを、もう一度考えてみるべきではないでしょうか?

合掌

(酒井 太観)

◆◆◆法話のバックナンバーはこちら◆◆◆


戻る

NMJNet Market Japan Corp.