信仰―法話コーナー

法話

私心なき和の心【2014年11月の法話】

先日のことです。少し混んだ電車に私は立って乗っておりました。何駅か過ぎたところで赤ちゃんを抱いた女性と荷物をもった男性のご夫婦が乗って来られました。すると席に座っていた若い女性が、その赤ちゃんを抱いた女性に席を譲りました。赤ちゃんを抱いた女性も最初は遠慮気味でしたが、せっかく譲ってもらったのだからといった感じでお礼を言いつつ腰を掛けられました。

また数駅過ぎて、席を譲った若い女性よりも、赤ちゃんを連れたご夫婦の方が先に電車を降りられました。そのご夫婦は、電車を降りるときも女性に一言お礼を言いつつ降りていき、女性の方も「いえいえ」といった感じで軽く頭を下げておられました。この時、若い女性のさり気なく席を譲った行為、また席を譲られたご夫婦も、そのことが当たり前のような顔をせず、また降り際にも再度お礼を言っていたことに、日本本来の奥ゆかしさのようなものを感じました。

電車の中での光景は、社会を表すほんの一端に過ぎないかもしれませんが、また社会を表す縮図のようにも思えます。昨今、電車では席に座るや否や携帯電話を操作したり、疲れているのか項垂れたりして周りを見ていない人がほとんどです。例えお年寄りなど、所謂、社会のなかでの弱者が電車に乗ってきたとしても、席を譲るという行為はあまり見受けられないように思います。況してや優先座席であろうと、学生服を着た若者達が堂々と座っている光景も見受けられます。私も席を譲ることはあっても、優先座席に座る学生を注意するわけでもないので、彼らと同罪なのかも知れませんが。

奉仕(ボランティア)活動、純粋に他人のために何かをすることは誠に素晴らしいことでありますし、そう簡単にできることではありません。しかし、そう称することで世間での聞こえも良いように、結局は自分(に箔をつけること)のために何かをするということも多いのではないでしょうか。また、電車で席を譲ることのように、誰かの評価を期待する訳でもない、しかし他人のためになるような些細なことはたくさんあります。戦後の行き過ぎた個人主義のなかで失われてきた家庭や地域、社会、国家などの共同体のなかで、私心なく公のため、誰かのために何かをすることはほとんどなく、また互いに助け合うこと、声を掛け合うことも少なくなっているのではないでしょうか。確たる個を持つことも大切ですし、個人を尊重することも大切ですが、公なくしての個の尊重は無秩序になってしまうだけです。そうしたなかで、今回電車で見かけた方たちに、私たちが忘れかけている大いなる和の心を見たような気がしました。

合掌

(日高誠道)

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