信仰―法話コーナー

法話

シジュウカラの教え【2014年8月の法話】

境内のアジサイが、雨のしづくを受けてますます色鮮やかに咲き始めたころ、我が家の玄関先のポストの中にいつからか四十雀(シジュウカラ)のつがいが巣を作り、卵を産んでいた。早速、近所の子供達がかわるがわるポストの中を覗き込んでは、早く雛がかえらないか、また雛はどんな姿なのか思いをはせ一喜一憂していた。その日から、ポストには「ことりのおうち」の貼り紙がはられ、仮のポストを設置せざるえなくなった。

1週間程たったころでであろうか、中から「ピーピーピー」と声が聞こえるので静かに開けてみると、生後間もない雛が大きな口を開けてエサをせがんでいた。その姿は、なんとも愛らしい姿であったのでしばらく見ていたら、3メートル程離れた木の枝から親鳥らしい小さな鳥が私を威嚇し、その気迫におされて私は思わず距離を置いた。するとすぐにもう一羽の親鳥がエサらしきものをくわえて中に入ると、うれしそうに鳴く雛たちの声が夕暮れの空に響き渡った。そしてなぜか、この小さな命たちが無事に成長してくれることが日々の楽しみのひとつとなった。

それからまた1週間ほどたったころであろうか、覗いてみると、1羽だけ巣から離れたポストの片隅で大きな声をあげ、羽をばたつかせていた。どうして巣から離れてしまったのかと思ったが、人間が手を加えて巣に戻しても人間の臭いがついた雛に親鳥がはたしてエサをあたえるのか?それよりも自力で戻ってもらったほうがよいのでは?と考えた。2日後、気になって開けてみると雛はもう動かなくなっていた。まだやわらかい動かなくなった雛を庭の片隅に埋めてねんごろに弔った。

その話を聞きつけた子供達が「なぜことりさんは死んだの?」しきりに私にきいてきた。私は答えに困ったが「まだ自由に空も飛べず、自分でごはんを食べることができない内に、巣(という雛が大きくなるまでにいなくてはいけない場所)から離れることは、死んでしまうことなのだ。生があれば必ず死というものもあるんだよ」と答えた。子供たちは理解できない様子であったが、雛が死んでお墓に眠っていることだけは納得してもらった。

仏教の考えでは、生まれた時に死は決まっている。生死一如である。死のない生はない。お大師様は、「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と生死一如を知らぬ、死と生を別のものと考えがちな我ら凡夫の現状を照見された。ある意味では、仏教は生死を越える道である。

しかし、この教えを子供たちに理解してもらうには、幾ばくかの時が必要であろう。

小さなシジュウカラの家族は自然界で一生懸命に生きながら、生と死は常に身近にあることを今もなお人生迷う四十をすぎた私に諭してくれたのかもしれない。仏の教えはいつも身近にあることを忘れてはいけないと心あらたにし、願わくば残りの雛たちが無事に巣立つことを念じてやまない。

合掌

(酒井太観)

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