信仰―法話コーナー


法話

布施行 〜ご恩を巡らすということ〜【2012年6月の法話】

先日、大聖院先代の墓地を掃除させて頂く機会がありました。皆様も御存じかとは思いますが、宮島にはお墓がなく対岸に墓地があるので、いつものようにフェリーに乗り墓地へ向いました。まず先代住職のお墓に掃除用具を取りに行き、もう一カ所の墓に向かって歩いてましたら、一人の女性と目が合い、「おはようございます」と双方挨拶をしてそのまま墓掃除を始めました。一時間くらい二カ所あるうちの広い方の墓を掃除し、先代住職のお墓に戻ろうとすると、先ほどお会いした女性をまたお見かけしたが、ご自分のお墓を一生懸命掃除されていたので声もかけずに通り過ぎました。また三十分くらい掃除し、帰る準備万全で歩き出すとお墓の前で休憩する女性とまたお会いしたので、今度はこちらからお声をかけ色々お話させて頂きました。ふと女性のお墓を見ると砂利まで小さな熊手で線を入れ、新しい墓地のようにすごく綺麗にされているのに驚きました。なんでも御主人様の月命日にはいつも掃除をしにお参りしているとのことで、「息子と来る時はお花を大聖院様のお墓にお供えして、宮島の神仏と思って手を合わせています。」と言われ、「ありがたいです。本当にありがたいです。」と何度も頭を下げておられました。

仏教では「布施」という言葉があります。一般には、在家信者さんが僧侶又はお寺に差し上げる金銭や品物と思われています。国語辞典でもその様に記されており「布施」の起源は、インドで仏教の在家信者さんがお坊さんに食事を差し上げたり、袈裟にするための布を献じたりしたことから始まっています。インドのお坊さんは戒律によってお金を持てなかった当時、品物として布を施すほかなかったので「布施」という言葉になったようです。しかし、金品を施す「財施」だけではなく、体を動かして掃除することもまた「布施」の一つであり、さらに仏教には「三輪清浄の布施」という言葉があります。
―布施をする人の心(布施をすることで驕り高ぶらない)
―布施を受ける人の心(布施を受けることは当り前ではない)
―布施される物(汚れたものではない)

私達は日々の生活から何か人に施され生きてます。家族にも何かをしてもらうことは多くありますし、職場の人にも時に迷惑をかけ、またそれを受けとめてもらっています。そして、僧侶としてお経を読み、自己反省し、今回のように信者様からも何かを学びます。締め切った部屋で線香を焚くと煙が滞ってしまうが、窓を開ければ煙が流れるように、受けた御恩はまた誰かに巡らせなければいけません。「布施」とは、日々色々な方々から何かを頂いていることに対して気づき、手を合わすことをきっかけにまた巡らせる事ではないでしょうか。(御恩を心で強く思い、次に繋げること)

お大師様がいう―禿(かむろ)なる木、定んで禿(かむろ)なるにあらず(愚かなものはいつまでもおろかではない)―というお言葉を励みにし、悪童から人間に少しずつでも近づいていきたいものであります。

合掌

(白井 祥雲)
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