信仰―法話コーナー


法話

中心【2012年11月の法話】

私の姉(あね)弟(で)子(し)(先に仏門に入った先輩僧)は長年リウマチに悩まされており、手足は自由に動かないうえ、お一人で暮らしておられました。移動手段は電動車椅子、お寺の近くの平屋で生活し朝九時頃お寺に来て夕方五時には帰られます。その間信者さんとお話をされたり、護摩行中はお堂に入れないので外から拝んでおられました。私達にとっては優しい先輩でした。いつも「懺(ざん)悔(げ)ですよ。祥雲さん」、「仏様はごっそり修行もさせてくれますが、ごっそりご褒美も用意してくださいます。」いつもこの言葉をかけてくれ不安や悩みも親身に聞いてくださいました。高野山で修行中も新聞の切れ端でここを読んでくださいと新聞の一説に蛍光ペンで印をしたりして送ってくださいました。本当に励まして頂きました。今はもうお亡くなりになられたのですが、心にいつまでも残るお言葉やお気づかいに励まされ今日生きていることを実感させられます。

私達は、日々色々な方々に支えられて生きております。時に自分の嫌なところや、上手くいかないことが浮き彫りになって悔しくて仕方ない時もありますし、感情をそのまま出してしまい人に嫌な思いもさせてしまいます。ですがこの体があれば人に親切にもできますし、困っている方がいれば何かできます。お大師様の『阿(あ)字(じ)の子』とは皆仏様の子ですよと伝えてくださっています。皆仏様の子供なら仏の子同士で、また兄弟でいがみ合ったり傷つけあうのは気持ちの良い行いとは言えません。ですが悩みや苦しみがあると、なかなか本来与えて頂いてる体や心に中心が置けなくなってしまいます。その様な時に、お寺に来てお参りすると自然と心が楽になる事があります。三鬼大権現様に御祈祷に来て帰られる方々の表情は祈祷する前とした後では、やはり違っています。皆様大いなる御(み)親(おや)に会いに来て安心して帰られるのでしょう。お大師様の『虚住実帰』(虚(むな)しく住(い)きて実(みち)て帰(かえ)る)とは、このことではないでしょうか。

今になって思うと、私の姉弟子も体の不自由と向き合い神(しん)仏(ぶつ)に中心を合わされていたのでしょう。毎日のするべきことに追われ生活しながら常に神仏を中心に置くのは難しいことです。私達僧侶が衣を着て修行するのが修行というだけではなく皆様にそれぞれの修行場があるわけです。その修行場で懸命に体を動かし(身(しん))、口は思いやりを持って話し(口(く))、心で神仏を思う(意(い))『真言宗ではこれを三(さん)密(みつ)と言う』ことにより自然と大いなる御親に中心が置けるのではないでしょうか。ですが分かっていてもできない時や、知らず知らず人を傷つけてしまうこともありますが、それでもしつこく反省と感謝を忘れず向上していきたいものであります。

合掌

(白井祥雲)
◆◆◆法話のバックナンバーはこちら◆◆◆



戻る 

NMJ Net Market Japan Corp.