信仰―法話コーナー


法話

如実知自心【2011年12月の法話】

私が高野山の専修学院という修行道場で修行をしていた折に、学院長先生に読んでみてはご教示いただいた本に、ドイツの詩人ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」という小説の部分に次のようなことが書いてあった。
 「石は一定の時間が経てば土になる。土はやがて植物や動物を生ずるだろう。石は時間が経てば、価値を持った動物や植物になるから貴重だと、人は思いがちである。だが現在、この石は石である。動物であり、神であり、仏陀でもある。私がこれを尊び愛するのは、これがいつか、あれやこれやになり得るからでなく、ずっと前から、そして常に一切(絶対的な存在)であるからなのだ」
 小説の内容は、バラモンの子であるシッダールタ(釈尊の幼名と同名だが別人)は、親に反抗して友人とともに家出して放浪の旅に出る。浪々の中、友人は仏陀釈尊と出会い、出家する。シッダールタは、自身で真理を見出そうなおも放浪を続ける。遍歴を続け最後に川の渡し守となって、日々川と対話しつつ生を送る。年老いたあるとき、仏陀の教団の長老となった友人と出会う。
 未来に手に入れるべきすばらしい果実のために、現在を犠牲にしようとする生き方がある。
 人生の師と仰ぐ人を手本として、そこにいたりつくべく努力をかさねる。友人の生き方がそれであった。
 それに対してシッダールタの生き方は、現在のこの世界にこそ、すべてが存在するとみなす。山川草木そのもの一切が教えであり、ただ無心に川の声に耳をすます。  現在我々は、物質的な豊かさのみならず自分にとって都合のよい解釈で、現状を変えることに専心してきた。目標に焦点をあわせ他のもの一切に目をふさぎながら、ひたすら進む。
 それが生きておれば当然だと思った。まさしく私もそうであった。
 学院長先生のこの本にたいする見解の中に、ものごとは、なにかに「なる」からすばらしいのではなく、なにかで「ある」こと自体に無限の価値が秘められているように思える。「なる」ことを求めることはやさしい。そこに目標があり、手本が示されているからである。一方、「ある」ことの価値を見出すのは、容易ではない。そのためには、なにものにも頼らず、みずからの眼のくもりをなくして、みずからの力で真実を見抜く眼力を必要とするからである。私も先生の見解に共感をいだいた。
 「如実知自心」という言葉があります。自心とは衆生が本来持っている菩提心で、その自心を真実の方法に従って観察すれば、仏果を証得できるものとする。大日経には「悟とは実の如く自心を知るなり」と説いてあります。
 ときがたてばなにかに「なる」ということに考え方自体がある限り、本当の自分にあうことができないのではないだろうか。なぜなら、わたしたちはなにかに「なる」為に生れてきたのではなく、生まれた時より私は私であるのだ。そして、その私が私の中にある仏に会い仏になるのではないでしょうか。

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