信仰―法話コーナー


法話

悟り【2011年11月の法話】

その昔、ある所に悟りを開かれた偉いお坊さんが居ました。彼は皆から尊者(そんじゃ)と称えられ、尊敬され、その辺りでは知らない者など居ないほど有名になり沢山の方がその尊者の元を訪れ、教えを受けていたそうです。
 ある時、その尊者の話を聞いた別の宗派のお坊さんが、「悟りを開いた偉大な方というのは、どれだけ素晴らしいのか試してやろう。」とその尊者の元を訪ねました。自己意識が強く、自分の方が偉いと思い込んでいたその坊さんは、尊者の事を認めたくなかったのでしょう。彼を陥れようと、水を汲みに出かけた尊者の後を追い掛けて行き、後ろから頭を殴ってしまったそうです。坊さんは「如何に悟りを開いたといっても所詮は人間、怒って飛び掛かって来るに違いない。それを皆に話せば信用もなくなるだろう。」と思って尊者が飛び掛かって来るのを待っていましたが、尊者は後ろを振り向きもせず起き上がってそのまま水を汲みに川へ歩き始めました。それに驚いた坊さんは「殴られた事を気にも止めないなんて信じられない。」と驚き、尊者に話しかけ、殴ってしまった事を謝ろうとしました。すると尊者は「何の事ですか。」と答えたそうです。その答えに驚いた坊さんは自分が尊者を試そうと殴ってしまった事を説明し、どうか許して頂きたいとお願いした所、尊者は一言「いいですよ。」と答えられたそうです。その後、その坊さんは自分の属していた宗派を辞め、尊者の元で修行をし、立派に悟りを開かれたそうです。
 この話から分かる事は、悟りを開かれ、この世の理を理解した尊者には余計な「自己」というものが存在しないということです。私達はいつも自分中心に物を考え、行動しています。自分が楽しい、自分が悲しい、自分が苦しい、自分が痛い、自分が…というように。尊者にはこの「自分が…」という意識がありません。つまり、先程の話の中にあった、殴られたという事に関しては、「痛み」がただ頭の殴られた部分にあるだけで「痛い」のではないのです。どういう事かと言うと、「自分」と「痛み」が結びつく事によって初めてそれは「痛い」になるのです。そうなってしまうと自分が痛い、苦しい、だから自分にそんな事をした奴は罰を受けてしまえばいい。下手をすれば、殺してしまえ、という事になります。そのような報復行為は仏教では一切認められていません。尊者には「自分が…」という思考が無い為、自分が殴られたという事ではなく、自分の頭と坊主の手がぶつかったという認識で留まってしまうのです。今のこの世の中でそこまでの意識を持つという事は、正直言って不可能に近いと思います。ですが、私達の日々の生活に生かす事はできると思います。
 自分が自分が…という想いと無駄にあれをしたいこれをしたい…という想いが結びつく事によって一つの欲求、煩悩となり、その欲求を満たす為に、私達はあれやこれやと努力し、疲弊し、結局は自分を苦しめています。純粋な想い、仏の心から生まれた誰かを救いたいという一心な願いや、自身を高める為に求める事は素晴らしい事です。ですが一つ考え方を誤り、もっと楽しい事がしたい、もっと美味しい物が食べたい、もっとお金が欲しい…というような煩悩に負けて自分のあるべき方向を見失ってしまうと、その煩悩は業火となって自分の身を焼き滅ぼしてしまいます。そうならない為に精進という道が私達の前に示されているのです。自分が…という自己を捨て、日々健やかに過ごして行きたいものですが、なかなかそうはいかないのがこの世の中。尊者の跡を皆様と掌を合わせゆっくり歩んで行きたいと願う日々です。
合掌

(虻川義照)

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