信仰―法話コーナー


法話

南無母御前【2010年2月の法話】

もろともに
あはれとをぼみ仏よ
きみよりほかにしる人なし

この一首は、鎌倉時代の僧明恵上人の和歌であります。上人が幼い頃亡くされた母御前の供養の為に、「仏眼尊」(仏眼仏母とも言い、諸仏の母と言われる)の画像に書かれてあり、その後に「南無母御前、南無母御前」と力の籠もった字が続いております。
明恵上人は若かりし頃、自身の端正な顔立ちが仏道修行の妨げになると修行の最中、自らの右の耳を切ってしまう程の厳しい修行を積み重ねられた方で、その名声は宮中に聞き及ぶほどでした。また、一切衆生に対する慈愛の心は深く、戦に敗れた兵士や、夫や家族を失った女人たちを匿われたり、寺一帯を殺生禁断の地として鷹に追われた小鳥や、猟師から逃げた獣が命を繋ぐ土地とされたりするお方でもありました。
「艱難汝を玉にす」という言葉があります。人はこの世に生を受け死ぬまで、生きていく上で様々なままならぬことがあります。しかしその苦しみも生きているからであり、それを乗り越えようと前に向かって努力を積み重ねていくとしだいに、ゴツゴツしていた己の我が円みを帯びてそして磨かれて光を放ちはじめます。まるで宝石の原石を磨かくと、輝きを放ちだすように。
そう頭でわかっていても、分厚い雲が空一面を覆い尽くすのを見て、もう二度と澄んだ青空は見ることが出来ないと悩み、降りだし雨に終わりがないのではないかと哀しみ、私がこんな苦しみに会うのは自分の業なのだと恨み、そして他を妬み、やり場のない思いが自分と自分の愛するもの全てを怒りの炎で焼き尽くしてしまうのです。
そんな私達一人一人の求めに応じ、三鬼大権様は親が我が子を想うが如く四六時中休むことなくお働き続けてくださっておられます。だからこそ私達もそのご誓願におすがりをし我が親と想い、時には恋慕の念で接するのです。
先ずは、発心帰依することからはじめましょう。帰依の「帰」とは乳飲み子が親の後を追って袖に追いすがるが如く、三鬼さんに乳飲み子のように無垢で一心におすがりをするということ。「依」とは命一切を委ね任せきっていくという心。その信じきっていくことが、全ての苦しみを退けてゆくのです。
冒頭に申し上げた高僧であられた明恵上人さえも、仏眼尊に亡き母の面影を偲び、想いを馳せることによって辛く苦しい修行を全うされたのです。
私達も三鬼さんに法縁をいただいた身ならば、ただ一心に「南無大聖三鬼大権現」とお称えをしさらに、信と誠ですがるならば必ず福徳円満の霊光がふりそそがれることでしょう。
今年も家族、親族そろって三鬼大権現様のお月参りを致しましょう。
弥山にて
合掌

(酒井太観)

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