信仰―法話コーナー


法話

無心になる【2009年8月の法話】

今年の四月から大聖院にお勤めさせていただくようになって、早くも四ヶ月を迎えようとしています。

皆様もご存知のように、我々大聖院の僧侶は三日間から四日間ずつ、交代で弥山に上がりお勤めをしています。弥山はお大師さまが開かれた大切な修行道場ですので、常にきれいに清掃していなければなりません。先日も弥山に上がってきましたが、掃除を始めて最初のうちは「きれいにしなければならない」という思いに駆られていました。しかし、いつの間にか無心になって手を動かしていました。

この時、最初の私のなかでは「誰かに見てもらいたい」とか「誰かに評価されたい」という潜在的な意識が働いていたのだと思います。こうした想いは誰しも抱くものです。しかし、ひとたび誰からも評価を得ることができなかった場合、こうした想いは苦しみへと変わります。

それは「私が何々した」「これは私の成果だ」という執着によって引き起こされるものです。このような見解を「我執(がしゅう)」「我所執(がしょしゅう)」といい、「自己にとらわれること」や「我がものであと思い込み執着すること」を意味します。「わたしが」とか「わたしのもの」という強い意識にとらわれている限り、人は苦しみから逃れることは出来ないのです。

では、その苦しみから逃れる為にはどうすれば良いのでしょうか?その答えの一つは、この「わたし」というとらわれを捨てることです。弥山で過ごす中で私の心が落ち着き清々しい気持ちになったのは、ただひたすら無心になっていたからです。この時、わたしという意識は薄れ、弥山の大自然の中なかに溶け込んだような気がしました。わたしという自己に対する強い意識がある限り、他者からの評価を気にせざるを得ません。

しかし、自己に対する強い意識がなくなれば、自と他の区別はなくなります。もっといえば、自と他の区別がなければ、他人の喜びも我がものとしてともに喜ぶことができ、また他人の悲しみも我がものとして受け止めることができます。これが自他平等なのです。このことは、互いを尊重しあうことにもつながります。

自己に対する意識を完全になくすことは難しいかもしれません。しかし、少しでも自己を抑えることによって、自己へのとらわれ、つまり苦しみを脱することは可能となります。更には自己と他者の区別をなくし、絶対的な平等の立場に立ち、互いを尊重しあうことによって、平和なより良い社会を作っていくことができると信じています。

 

(日高誠道)




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