信仰―法話コーナー


法話

執着の心【2009年5月の法話】

渇愛という言葉があります。
 これは我々が生きていく中で誰しもが経験し、逃れる事が困難とされているものです。渇とは「のどが渇く」という事。愛とは「欲しい」という事ですから、渇愛とは「もっと欲しい」という意味になります。この渇愛は人の心の中で、「もっと欲しい」という思いがずっと続いている状態の事を指します。

皆さんは今何か欲しいものはありますか?誰でも何か一つは思いつくのではないでしょうか。では、それを得たとしても「もう十分だ」「満足した」と思えますか?その一瞬は満たされたとしても、すぐに「やっぱりこれも欲しい」という思いが溢れて来ませんか?「もっとあれがあったらいいなぁ」と思うという事は、つまり心が満たされてないという事。だから渇愛が心に住み着く限り、貧乏な、惨めな気持ちでいなければいけないのです。

例えば、自分の子どもはちゃんと勉強もしていて頭も良いのに、その親は「もっと勉強した方が良い」と思って今以上に子どもに勉強を強要する。そうなるとすでに幸福なのに満足感を得られなくなってしまう。子どもが優秀であるという現時点での事実を失いたくない。つまり欲しくて手にした物を失いたくないと思う恐怖、これも渇愛なのです。

自分が成長する為にする努力、部活でもっと練習して試合に出て、家族を喜ばせたい。という向上心や、病気で苦しむ人々の為により良い薬を作りたい。というような真っ直ぐな心、他人の為に何かをしたいという「仏の心」から生まれる想いはとても尊いものです。純粋に「何かの為に、何かを救いたい、」という一心で努力する者にはきっと光が射す事でしょう。が、考え方を少しでも誤ると、それは渇愛となって自身を焼き焦がしてしまいます。

たくさんの情報や物が溢れるこの世の中で、様々な出来事に我々は悩まされます。十分幸せなのに他人の持つ物を見ると、自分の手にした物はほんのわずかで、得ていない物は沢山あるのだと悲しくなってしまう。こうした些細な悲しみによって、人間は精神的な病気になってしまいます。生きる苦しみ、悩みというものは、形は違えどこの渇愛によって生み出される事がほとんどです。

ですから何事に対しても「もっと、もっと…」という欲求を捨ててさえしまえば、今以上に日々を穏やかに過ごせる事でしょう。どんな事が目の前で起きても自分の価値観や経験、心情などに捕らわれずに、その物事の本質を見極め、対応したいのなら、この渇愛という病気の種を捨て去る事です。

そうする事によって恐怖感、悲しみ、苦しみなどの精神的な病から開放される事でしょう。皆様が「渇愛」という執着の心を捨て去る努力を少しずつでも実践していかれる様、御祈り申しております。合掌

(虻川義照)



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