信仰―法話コーナー


法話

■脚下照顧【2008年7月の法話】

大聖院・観音堂横に、小坊主のような、右手で足元を指差し、ちょっと怒っているようなお顔をした、小さな石仏にお気づきの方がいらっしゃるでしょうか。「脚下照顧」と、彫ってあります。

「水戸の黄門さまが、歩き疲れて、知らずに道端に置いてあった、米俵に腰をおろし、一休みしたところ、お百姓さんにひどく叱られ、『これは私が悪かった』と土下座して謝った。」というお話がありますが、今の世の中、このお百姓さんの忠言を、文句も言わずに、素直に受け入れ、謝罪し、自分への反省とする人が、何人ありましょうか。

お金を出せば、何時でも、何処でも、何でも、何とでも、品物は買えるという気持ちが、申し訳ない、私が悪いという自省心をおしつぶし、自分の態度、行いを顧みる余裕が全くありません。

かつて、日本人は、世界の人達から、謙虚で、勤勉で、常識・良識のある国民だと言われていましたが、最近特に、財力、権力、地位にものを言わせようとする、傲慢の心が強く、常識どころか、自分でありながら自分でない生活に苦しみながら、悩んでいるのではないでしょうか。

お釈迦さまが、クシナガラで、涅槃の境地に至られた時、最後の教えとして、自らを灯とし、法をよりどころとせよ、とお諭しになりました。

「おん身らよ、おん身らは、何時、何処にあっても、おん身らのなかに眠っている、もう一人の自分に目覚めよ。」と、お大師様を説かれています。

自分でありながら自分でない生活は、家庭を崩壊し、社会を暗くし、世界の人達からも取り残されてしまいます。

形式や流行に惑わされず、自分の足元をしっかり見つめ直し、見極めることが大切です。今、ここに、脚下を照顧して、自分が自分であることに目覚めなければなりません。

「脚下照顧」、この小さな仏さまは、私たちに、そうおっしゃっているのです。

(本徳寛俊)



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