信仰―法話コーナー


法話

節目も通過点 【2006年12月の法話】

 今年も早いもので、暮れようとしています。一年が、早く過ぎるのを感じているのは、私が歳をとっただけではないと思います。思い出せば、昨年の今頃は、「来年は、開創1200年にあたるから大変な年になるぞ」と思っていましたが、今年は年間を通していくつもの行事を行い、特に1200年記念法要、弥山霊火堂落慶と普通、一年に一度しか行わない行事を、いくつか勤修してきました。これからつづいていく歴史の中で、新しい霊火堂の再建、1200年記念法要は、歴史の一ページを刻みました。私の孫の世代になれば、この大変、目まぐるしい一年が、弥山、大聖院の歴史上では、一行にしかならないかも知れません。開創1200年と言っても、それは、あくまでも通過点にしか過ぎませんが、こう言う節目の年、また、来年以降の普通の年を越えて歴史を刻んでいくのです。ある時、こんな言葉を耳にした事があります。人は生まれて死ぬまで、本当にたくさんの人々に出合います。二、三度合って後はまったく合わなくなってしまう人、家族の様に人生において大切な人もある。しかし、ヒトにはどれも出合いの一つである。悲しいかなヒトは出合えば、必ず別離なければならない。誰ものがれられない。そんな多くの出合いの中で、たかが一つの「別れ」なのに、人生のすべてを失った感じを受ける「別れ」がある。
たかが出合いされど出合いである。人はとかく節目を重んじるところがありますが、竹でも、節より、そうでない所の方が多く、目立ってしまうところに目がいってしまう、普通のところの大事さについつい忘れがちになります。節目は、普通なところがあるから節目が来るのです。
私たちは開創1200年と言う年に巡り合えて幸せですが、今まで通り来年からの普通の一年も大切にしていかなければなりません。今年はダライラマ法王も来山され、また、それ以外にも、記念法要などを通じて、たくさんの方とも出合えました。霊峰も500号をむかえる事もできました。これから永くつづく歴史の中で一つかも知れませんが「たかが…されど…」であります。
無事に過ぎている一日、一年を幸せだと感じ、巡り合える事、生かされている事に感謝しなければならないのではないでしょうか。

(福嶋 範道)



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