信仰―法話コーナー


法話

忘れる、憶える【2004年6月の法話】

  私たちの体は、忘れるということがあるので心や身体の負担が軽減される。忘れることがなかったなら、おもちゃ箱をひっくり返したようで、まとまりがつかず心の平静を保つことができない。また過去のきまりの悪かったこと、気に食わなかったこと、うれしかったこと、悲しかったことなど、いちいち正確に憶えているとなると、人に会うことも、人と語ることもできないであろう。
この忘れるということは心や身体のはたらきの上で必要なものである。怪我かなにかした苦痛の記憶がいつまでも残っているならば、顔をゆがめて苦しまなくてはならない。又うれしかった記憶が支配していると、まじめな場面でも、傷をおった時も小躍りしてニヤニヤしているであろう。

 昔から茗荷を食べると物忘れをすると言われている。私と修行を共にした人から聞いた話だが、その昔茗荷上人というお坊さんがおられ、その人には弟子がいて、その中に上人をすごく尊敬し慕っている人がいました。上人は死期が近づいた時その弟子を呼び「もし私が死んだら裏山の植物の芽を摘んで食べなさい。」と伝えた。それから暫くして上人が亡くなりその弟子は言われたとうりに植物の芽を食べて茗荷上人のことは忘れて修行に励んでりっぱな僧侶になったそうです。上人はこの弟子があまりにも自分を慕っているのでもし自分が死んでしまったら後を追って死んでしまうと思いその弟子に茗荷を食べるように言ったのである。

この話は忘れた事によってよかった事ですが、普通の生活をしているとそうはいかないでしょう。外出した後、玄関の鍵はちゃんと閉めたか、仏壇の火は消したかと心配した方も多いと思います。こういう場面は、きちんと確認をしてないために起こることです。

私たち人間の忘れるということは仕方ないことです。
ですから有用なことを記憶して社会生活に反映することが大切なのではないでしょうか。

(高取顕勝)




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