信仰―法話コーナー


法話

どこへゆくのか【2004年3月の法話】

 若いときには、よほどの事情がないかぎり死については考えないものです。中年になって、親や親戚の死に遭っても、直接、自分の問題として捉えにくいのが普通です。ところが老いの坂にさしかかり、年齢の近い友人や知人の訃報に接すると、やがてそれが必ずわが身にふりかかる現実として死を受けとめる。それが一般的な人間の死との関係ではないかと思います。
 釈迦は生まれ育った王城の四門から外に出たとき、老、病、死を迎えた人たちと出会い、愕然とされました。これらが原因となって、恵まれた王城の生活を捨て、遊行の旅に入ったといわれています。四門を出て見た現実がなぜ、大きな衝撃を与えたのでしょうか。
 頭の中で理解していた老、病、死がやがて我が身に襲い来る、逃れようがない真実であることに気がついて、強いショックを受けたのだと思います。
 老、病、死は、生を加えて、四苦としてまとめられ、釈迦の教えの基本的な部分に据えられています。四苦といえば、普通、四つの苦しみのように受けとめています。しかし、ここでいう「苦」とは、痛いとか、ひもじいとか、悲しいといった感覚的な苦しみではありません。本来の意味は、思い通りにならないこと、ということです。
 この、思うにまかせぬ、そして、生きとし生ける者が必ず迎えねばならない「死」に臨んだとき、われわれは、いったいどこへ行くのでしょうか。
 成田空港の国際線の飛行機の行き先表示板には、モスクワ行、ロンドン行、シカゴ行、シンガポール行など、さまざまな国々へ行く飛行機の表示が出ています。われわれは、それぞれの行き先を選んで、それに乗って目的地まで行きます。アメリカに行きたいと思っても、シンガポール行に乗ったのでは目的地に着くことはできません。また、どこに行くのか行き先を決めていなくては行きようがありません。ちょうどこれと同じように、日頃から「死」に臨んだとき、どこに行くのか決めておかなくてはなりません。
 阿弥陀如来は、自分の教えを信じて南無阿弥陀仏と唱え念ずる人は、極楽浄土に迎えてあげると言っておられますし、薬師如来を信仰している人には、瑠璃光浄土でお薬師様が待っておられます。観音菩薩を信仰する人は補陀落世界で観音さまにお会いできるでしょう。不動明王を信仰している人は、不動明王という仮の姿に身を変えている大日如来の世界に行くことになります。
 信仰心とはある意味で仏さまに惚れることだと思います。仏さまのお説きになることがすばらしいと感動して、もっと教えを知りたい。仏さまのおっしゃるとおりにしたい。それがつらいことであっても、仏さまが望んでおられるような人間になるよう努力を惜しまない。そして、すこしでも仏さまのそばにゆき、いつも一緒にいたいと願うことが、目的地を決める一番大切なことだと思います。 (本徳 寛俊)



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