信仰―法話コーナー


法話

日常語に見られるわたしたちの宗教心【2004年1月の法話】

 「すみません」というのは、皆さんに人気のあった林家三平さんの口ぐせである。彼は会う人ごとに「すみません」という。相手がまだ何もいわないうちに、「すみません」と頭を下げる。それがわたしたちの笑いを誘う。
 高橋圭三アナは、「どうも、どうも」を連発する。彼の「どうも」は、「どうもすみません」の略されたものらしい。彼の「どうも」が人なつっこい笑顔とともに、わたしたちの心をほぐしてくれるのに力のあることは確かだ。
又、わたしたちも、人に頼みごとをする時などに、気軽に「すみません」を使う。それだけ、この言葉がわたしたちの生活の中に溶け込んでいるからだろう。
 しかし、この言葉は、もともとおわびの気持ちをあらわしているのである。この懺悔の心こそ、宗教的感情の源泉なのである。
 例えば、わたしたちが目上の人からしかられたとしよう。悲しいことに、わたしたちは腹をたててしまう。しかしこの腹立つ心の奥には、自分はそんな風にしかられるほど悪くはないという気持ちが働いている。それが、わたしたちの普通の心の動き方だと思う。仏教では、それを自是他非の心という。
 しかし幸いにして、しかった人に向けられていた目が、しかられた自分に向け変えられるとき、いい換えれば、自分自身が省みられるとき、わたしたちは、やはり自分が悪かったということを感じることができる。そして反省して、ほんとうに自分が悪いと感じられるときには、むしろ目上の人をありがたくさえ感じられるようになる。
 仏の慈悲は、わたしたちが自分の悪いことを心から悔い改めるときに、惜しみなく働いてくださるのである。わたしたちが自分のどうにもならない悪さをいたみ悲しむとき、初めて自分に注がれてきた周囲の方々の善意に心から感謝することができるのである。
 ところが、わたしたちはいつでも自分を「善」とし、まわりを「悪」として暮らしているので、なかなか自分を悪と思い、他人を善と思えないのである。これが、わたしたちの偽らないありさまである。だからどうしても、善と悪との帳尻が合わない悪い自分を悲しんで「すみません」と悔い改めて、仏の慈悲にすがるのである。
 仏さんに手を合わせるとき、お願い事ばかりでなく反省の気持ちも込めて合掌すれば新たな自分を見つけることができるのではないだろうか。 (高取顕勝)



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