信仰―法話コーナー


法話

古井戸のたとえ【2003年9月の法話】

 ある男の人が旅をしていた。うっそうと茂った草むらに足を取られそうだったが、広い野原をとぼとぼ歩いていた。その時、突如として一頭の虎が現れた。旅人は色を失って立ちすくんだが、はっと気付いたように走り出した。虎は旅人を追ってきた。ランランと目を光らせながら、久しぶりに好餌(こうじ)を得んものと猛然と迫って来た。
 あわや、旅人は虎の牙にかからんとした時であった。目の前に古井戸があった。井戸の上をおおっていた木に藤づるがからんでおり、それが井戸の中にたれていた。旅人はそれに飛びついて、井戸の中にずるずると伝っておりた。
 虎は井戸の中までは来られなかった。旅人はほっと一息ついて、深井戸の底を見た。すると、そこには二匹の大蛇が真紅の火のような舌を出して、旅人の落ちて来るのを待ち構えていた。旅人は生きた心地がしなかった。旅人は上を見上げた。すると何ということだろうか、旅人の必死になってつかまっているその藤づるを、白と黒のねずみが、代わる代わるやって来ては、かじっているではないか。絶え間なくかじっている。旅人はもう駄目だと思った。
 ところがその時、上の木の枝に蜜蜂が巣を作っていたのであろう。蜜がぽとりぽとりと落ちてきて、旅人はそれをなめた。すばらしい甘味である。蜂蜜のうまさに旅人は酔ってしまって、虎や大蛇のいることも、又ねずみにかじられていることも、みんな忘れてしまった。
 お釈迦様は、この旅人が迷える人間であり、人生の姿であると説かれた。
 古井戸は人生である。人間は一本の藤づる、一つの生命にかじりついている。その命のつるは、白と黒のねずみ、即ち昼と夜が代わる代わるやってきては、その命のつるが、絶え間なくかじられている。そしてそれが切れたら、苦しみの世界(大蛇の口)に沈まねばならぬのに、ただ朝夕、甘い蜜蜂(地位・名誉・財産など)に酔いしれて、自分の危ない姿を忘れて生きているというのである。
 よ くかみしめてみなければならない話ではないだろうか。 (高取顕勝)


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