信仰―法話コーナー


法話

■旅する心2003年6月の法話

 旅はレジャーの王様のようにいわれて、日本の旅行人口は世界で一、二を争うほどだそうです。国の内外を問わず、誰でも気楽に旅を楽しめる時代になったからでしょう。
 しかし、その昔は大変でした。道路も地図も、交通機関や宿屋の設備も、何一つ整わないうえに、山賊や追いはぎは出るし、恐ろしいけだものにも悩まされなければなりませんでした。だからよほどのことがない限り、人々は旅に出ることがなく、やむなく旅に出るにしても、家族の者と水さかずきを交わして家を出るほどだったようです。ただ、お坊さんだけはこれらの危険や困難を承知のうえで、自ら進んで旅に出掛けました。旅を修行の一つと考えていたからです。
 旅芸人や旅商人などと並んで旅僧という言葉があるように、旅とお坊さんは深い関係があります。一つには、坊さんは出家して家庭を持たないで、厳しい掟
(おきて)を守らなければなりませんから、旅に出ざるを得なかったのですが、もう一つは、未開の土地を訪ねては人々の生活を少しでも豊かにすることが仏の教えと信じていましたから、進んで辛い修行の旅に出たわけです。托鉢(たくはつ)・乞食(こつじき)・雲水(うんすい)・勧進(かんじん)・遍路(へんろ)など、いずれも旅僧にちなんだ言葉ですが、坊さんは旅によって自分を鍛えるとともに、他人を教え導く使命を帯びていたともいえるでしょう。
 弘法大師や行基菩薩は、その代表的な旅僧です。道を造ったり、池を掘ったり、橋を架けたり、その他力を尽くして、仏の教えを広めたのもお坊さんたちの旅のおみやげといえましょう。
 托鉢をして、樹下石上
(じゅげせきじょう)の暮らしを続けることは苦しい修行だったに違いありません。しかし、これらを克服して、世のため人のために尽くす旅を続けた者のお坊さんたちは、身をもって仏の教えを広める手本を示して下さったのです。旅行を単なる遊びのように思っている今日の人々に、旅は心の道を求めるものにあることを改めて考えさせることではありませんか。
 仏教は、このようにして、旅に出ることを僧の修行の一つに教えました。発心
(ほっしん)の境地は自然と一体となることであり、樹下石上を暖かい筵(むしろ)と感じて、一枝の枝を自分の両脚と信じた旅の精神を表現したものにほかなりません。
 この旅の精神は、四国、西国などの遍路の心にも受け継がれています。手甲脚絆
(てこうきゃはん)にわらじがけで鈴を鳴らしながら、霊場を巡拝するお遍路は、宿に着けばまず同行二人と書いた菅笠と、金剛杖をきれいにぬぐって、床の間に収めます。常に仏とともに歩む信仰の表れがそこに見られます。
 いくら便利な時代になっても、旅行く心は、美しくありたいものです。もう一度じっくりと旅する意義をかみしめたいものです。


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