信仰―法話コーナー


法話

■苦諦2003年3月の法話

 名医は病気を患者とともに治すと言われる。どんな名医でも自分の病院にやって来ない患者は治すことはできないであろう。病気を治すには先ず何よりも患者自身の「自分は病気である。」とい自覚がなければ始まらないのである。自分が病気だということに薄々気付きながらそれを認めるのが嫌で検査もせず、また何の対策も立てないで病気を更に進行させている人は我々の周りにも沢山見聞きできる。ちょうどテストの対策をとらねばならないことを分かっていながら、テストが近づくと何か別の遊びに知らず知らず熱中してしまう学生のように、忘れよう忘れようとしながら現実から逃避して行くのである。その様な患者の病気は如何に名医であっても治せようはない。
 さて我々は自分が苦悩の最中にいるのだという自覚を持っているだろうか。本当のところは苦悩以外の何ものでもない生活でありながら苦悩を自覚しないのは、苦悩を忘れ去る機会が我々の中に備わっているからである。例えば出産の苦しみは並大抵のものではないはずであるが、母親はいつの間にか忘れ去り次の子を産むのである。これは種の保存の一つである。年を取る苦しみや病気の苦しみも、絶えずその苦しみ悩みを考えていては我々の精神が続かない。忘れ去っているだけだということを自覚もせずそれらを何とかはぐらかしながら我々は生き続けているのである。
 しかしひとたび自分の存在について、このたった一人で老いと病と死に向かって一歩ずつ歩んでいる自らを深く洞察してみれば、人生というものが苦しみ悩み以外の何ものでもないということに気付かざる得ないであろう。
 応病与薬の説法に人々を導き、煩悩に心を蝕まれた我々を解放へ導く「大医王」たる釈尊によって、苦悩から解放という治療の第一歩、すなわち「苦・集・滅・道」の四諦の中の第一聖諦「苦諦」の教えが我々に示されたのである。自らの苦悩の自覚こそがその苦悩からの解放の絶対条件であることをここで確認しておかなければならない。


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