信仰―法話コーナー


法話

■秋の彼岸2002年9月の法話
 
 
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよくいわれる言葉であります。暑い暑いと言っていた夏もようやく去って、しのぎやすい秋日和が続きます。秋の七草も桔梗(ききょう)をさきがけに、次々とかれんな花を咲かせて人々を喜ばせます。秋の彼岸も中日の前後を通じて一週間営まれます。彼岸会の起こった年代は、はっきりしませんが、日本でかなり古い時代であったことは間違いありません。このことは今やほとんど慣習的になっていますが、それにしてもまことにゆかしい年中行事であります。
 彼岸はかの岸と書いています。かの岸がある以上、この岸もあるわけです。もちろん、彼の岸といい、此の岸というのはたとえに過ぎません。此の岸はわれわれ凡夫はいつも自己中心の心のやまない人間であり、仏はそうした利己のはからいを捨てて、他のために救いの手を差し延べる方です。この世はいつわりと矛盾に満ち満ちています。まことにうわごと、たわごと一つとしてまことならざる世界であります。
 ひとたび宗教心に目覚めた時、人はこうしたいつわりと矛盾に満ちた世界にはどうしても満足することができません。そして誰よりも先に、この自分はいつわりに明け、いつわりに暮れて、救われない人間であることを自覚するのです。宗教には、どうしてもこの深刻な自己反省がなければなりません。一点自己を許す心ある限りは、宗教的でないのです。宗教に必須なものは悔い改めであり、回心であり、懺悔(ざんげ)です。懺悔は過去の罪過を再び繰り返すまいと悔い改めることです。
 このような罪悪慎重な自己でも、大悲の仏は捨てられず、必ず摂取してくださるのです。われわれはそれを信じればよいのです。信じるものは幸いだ。「大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり」とあります。信心を起こすのは、仏性の働きであり、仏性は人間の宗教性といってよいのです。この宗教性があってこそ、現実の人生に満足せず、絶対的なもの、実在的なものを求めてやまないのです。信心決定した人に、仏性はおのずから現れ、仏性が現成すれば、それは悟りであり、悟りを得たものは如来にほかならないのです。しかし、仏になるべくして、ならない法は菩薩であり、菩薩は自ら修行して進んで他に救いの手を差し延べる人です。彼岸は菩薩が利他行(りたぎょう)を行う目標であり、理想の境地でもあります。われわれも日頃の生活を少しでも仏の境地に近付けたいものです。


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