信仰―法話コーナー


法話

■歳月は慈悲を生ず2002年5月の法話

 
あるお母さんが、こんな話しをして行きました。「病気で寝込んだ息子が、こんな時は女房に看病してもらうより、お袋に看病してもらう方がいいなあって。そんなことを言われると嫁がかわいそうで本当に困ってしまいます。」
 その時、その若いお嫁さんの気品のある、ちょっと寂しいかげをひいた顔を思い浮かべました。そして「寂しかったでしょうね」と、口の中でつぶやきました。
 人間の精神は、病気の時には弱くなってしまって、ついこんなことを口走ってしまうものです。しかし、愛情の深さは、共に過ごして来た歳月によっても異なっていると思います。母と息子の過ごして来た何十年もの歳月と、妻と共に過ごして来たほんの数年の歳月とでは、重みも、味わいも、深みも異なっているのはしかたのないことでしょう。
 何十年の間、生命の底から、かもし出されて来た母子の愛情の味は、ほんのわずかな年月の甘い、華やかな、しかし、どこか脆(もろ)い若い愛情の味と同じであるはずはないのです。
 この二つの愛情は、そのままで比較することはできないのです。もう十年もたてば、その息子さんも奥さんに向かって、「お前の看病でないとだめだよ」と言うようになるに違いありません。今のところは、肩をすくめて、可愛い舌をちょっと出す位でちょうどいいのではないでしょうか。それでもまだ寂しかったら、「あの人ったら、人の気も知らないで、ああ寂しい、わあ寂しい。」と気の済むまで口に出して言ってみてください。ただし、誰にも聞かれないところで。本当に寂しかったら、その声だって出やしないのです。出るうちはまだまだ大丈夫。それ程深刻な寂しさではありませんから。
 「歳月は慈悲を生ずる」という言葉があります。歳月が人間を変え、人間を苦しめることもある代わりに、歳月は私たちのフラフラした頼りない愛を、次第に深い重いものに変えてくれるようです。若い夫婦や嫁と姑との心の交流は、五年を一年位に考えていけばいいのではないでしょうか。
 五年たってやっと一年生、十年たってもまだ二年生。一年や二年の生活で、もらい損なったの、見損なったのと、わめきたてるのはやめましょう。どうせ我々の生活は、見損ないの連続が多いことでしょう。長い目でわたしたちの愛を育てていきたいとしみじみ思います。


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