信仰―法話コーナー


法話

■「教えつつ学ぶ」2001年9月の法話

 『理趣経』(りしゅきょう)という経典がある。『般若(はんにゃ)理趣経』ともいう。密教の経典で、真言宗において常時読誦される経典である。わたしが初めて学んだ時、その読み方と意味に困惑した憶えがある。
 『理趣経』は、密教教典であるから、もちろん説法されたのは真言教主大日如来である。そして、その大日如来の説法の代表として、八人の菩薩が登場する。その八人のうち一人に、

 ―纔發心転法輪菩薩(さいはっしんてんぼうりんぼさつ)―

がいる。むずかしい名前の菩薩であるが、なかなかおもしろい菩薩である。   「纔發心転法輪菩薩」とは、“纔”というのは「わずかに」であり、“転法輪”とは法(ダルマ。真理)の輪を転ずること、つまりは「説法すること」である。したがってこの菩薩は文字通りに、

 ―ほんのちょつと発心しただけですぐに説法をはじめる菩薩―

という変わった菩薩なのだ。昨日、仏教の勉強をはじめたばかりなのに、今日はもう先生になって仏教を教えているというのだから、なんだか変である。
 だが、ここに密教の特色がある。密教においては、「学ぶこと」と「教えること」が一体なのだ。学びつつ教え、教えつつ学ぶ。そういうかたちになっている。
 おもしろい例でいえば、「断酒会」というのがある。アルコールにどうしても頼らなくては生きていけない人たちが仲間をつくり、お互いに励まし合って酒をやめようという会である。わたしの聞いた会においては、その会に入りたいと申し込んでくる人がいる。そしてその人は先輩の面接を受け、入会を許されて先輩からアドヴァイス(忠告)を受ける。そうすると、その翌日には新入会員が窓口において、新たな申込者の応接をするのである。まさに、纔發心転法輪菩薩そのままだ。
 その人は、相手を説得しているのだ。酒の害を説き、ぜひとも酒をやめねばならぬと教えている。しかし、それはたんに相手に対する説得ではなく、自分に対する言い聞かせなのである。そういうかたちで自分を教えているのである。
 われわれ一般の者でも、親が子に、先生が生徒に、師が弟子に、説きさとす場面がいくらでもあると思う。教えつつ学ぶ、そのことが大切なのだ。
 仏道の実践にも、それが当てはまる。人を説得しつつ、自分に言い聞かせる。そして一緒に仏道を歩んでいくのが、仏教の実践だと思う。


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