信仰―法話コーナー


法話

■愛に飢えた子供たち 2001年6月の法話

 
現在の時代でよく耳にする言葉で「アダルトチルドレン」という言葉がある。すでに年齢的にも、十分すぎるほど成人になっているのに大人になりたくない人達のことである。「大人なのに子供でいたい」とは親達の甘やかしの結果で家庭崩壊から誕生してきたものではない。けれどもアダルトチルドレンと呼ばれる若者たちは「大人になりたくない」と自分の殻にとじこもって、一切の脱皮を拒絶してしまうのである。こうなると勉学であるとか社会に出るとか、仕事をするなど他者との交わりを一切拒絶してしまうのである。
 子供の教育には、根本的な場が三カ所ある。「家庭」「学校」「社会」である。このうち社会というのは、学ぶための場ではなく本人の心掛けによって、学び取る場であって、教育の場ではない。しかも現在でありがちなことであるが、母親も共働きとして仕事を持っている。そういう家庭では、早いうちから子供は保育園に預けられる。両親が子供にかかわる時間は非常に少ない。まして父親がかかわる時間は、いったいどれくらいであるというのだろう。その上に、たいていの子供たちは、母親の名門校志向の犠牲となってお受験のために塾通いをさせられるのであるから、子供たちの家庭における私的時間は非常に少なくなってゆく。こうした中で、得るべき時代に、得る事の少ない幼年期、少年期を過ごしてしまう事になる。得るべきものとは、父性愛で あり母性愛である。母親の愛を充足することなく、心に空洞を残したままで、思春期突入してゆくのである。
 結果、愛に飢えた子供たちの群れが学校の教室に集まるのである。教師に両親の代理を求めるのは、土台役割が異なる。家庭で、真に主役でない分が、学校などで友人に向けられて、その代償行為となってゆくのである。
 両親は、たまの体日に子供を連れて、家族での愛を確認したり、育てたりしていると錯覚するが、それは、子供たちにとっては、特別な日、なのであって、日常ではない。そうした場では、子供が多少のわがままをしても、すべて「いいじやないか」と許してしまう。叱るよりも、許す方が疲れないからである。かくて、何でも許される子供が誕生する。子供たちの心の空洞が、たまの体日の行楽で埋まるはずはない。
  愛は、待別な形で注がれるものではなく、日常の積み重ねの中で、自然に注がれ相続されてゆくものである。自分の仕事への誇りや大切さ、モノの尊さを日常の中でしつけてこそ、真の子供の教育になってゆき、父性への尊厳も芽生えてくるのである。そして、母親は父親の偉大さを伝え、父親は母親の慈愛の深さを伝え、教える事だ。
 生きてゆく辛さが、恩痴や怒りとなって、子供に伝わったなら、子供たちは将来の希望を失い、大人になることを拒絶するだろう。 だからこそ、神仏に、手を合せる姿を子供たちに見せ、今ある自分を感謝する姿を、具体的に見せつづけてゆくのが大切なのではないだろうか。


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