信仰―法話コーナー


法話

■人が持っているもの 2001年5月の法話

 
地球上の人類すなわち我々人間には、煩悩と言う物がある。では人間の煩悩とは何んであろうか。
 煩悩とは、仏教で使う言葉であるが、人間が持っている重要な心のはたらきである。煩悩とは煩悩心とも言って、字の如く「煩い悩む心」の事であります。人間が見せる煩悩は、人により、又、状況等にて様々な形を現す。その煩悩の形は整理して三つの形が有り、「貪欲(どんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)」と言う三毒として表される。
 「食欲」は、むさぼる心で何人でも己の物にしたいと思う心で、「瞋恚」は、ねたむ心やにくむ心である。「愚痴」は、おろかな心の事である。愚痴とは智慧すなわち智明のない事で「無明」とも言う。百八煩悩という言葉がある様に、人間の煩悩には色々な形があるがまとめればこの三毒であると仏教では教えている。
 人間に慣悩があるという事は苦しいことである。煩い悩むことは楽しいことではない。しかし、考えてみれば、それは、人間が社会生活の中で生きていくためには必要なことである。人間は煩悩という物を背負って、この世に生まれて来なければならなかった、という悲しい現実・存在である。もし人間に煩悩がなければ、誰も仏様など望む事はないだろう。もしかして、お釈迦さまも悟りを開いて、人々を救おうと言う気を起こさなかったかもしれません。
 我々、人間が社会の中で生活をしてゆくためには共存共栄、生存競争を強いられる。人々は共同生活をすると同時に、個人的に競争をする。それは好む好まざる関係無しで。人間は一つの行動について、社会的と個人的の二つの面を持っていて、主としてその個人的な行動において悩む事が多い。
 例えば、革命をするとしよう。成功すれば、その人や社会的な意義は大きいが、必ず犠牲が出る。社会的には書でも、個人的な面で見れば、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒以外の何ものでもない。人間の社会的行動には、大小の程度の差こそあるが、善・悪の二面が必ずつきまとう。その悪の面には煩悩が存在している。人間が行動をする時、その心の裏のどこかに煩悩が有るのではないでしょうか。個人的な行動には煩悩が多くあるのではないのでしょうか。人は、煩悩を背負ってこの世に生まれ、人が己の煩悩に気付いていないのが「無明」で有り、無明も煩悩である。その煩悩の中の「もとめる」と言う心が無ければ「悟り」も開く事が出来ないし、生きている人間は煩悩と手を切る事が出来ない。が、「入我我入」で仏と一体になり、迷う人の心を慈悲で救おうとする仏さまの本願を智慧を使い、悩む心を救うという事をするのも我々人間である。



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