信仰―法話コーナー


法話

■方便 2000.7.1

 釈尊は大宗教家であったと同時に大教育者でもありました。その人に一番ふさわしい教えを一人一人に説いておられます。
 釈尊は入滅直前に、阿難尊者にいろいろな注意を与えておられますが、その一つにチャンナというお弟子に関することがあります。
「チャンナは誰にも話しかけてはならない。またチャンナに話しかけられても誰も答えてはならない」といい残したのです。あの慈悲深いといわれるお釈迦さまが、これほど苛酷な法を申し渡しているのです。それはもちろん理由あってのことです。

 ここでいう事は、チャンナか孤立をいい渡されたということですが、釈尊が亡くなられたあとで阿難尊者からそれを聞いた迦葉尊者は、「それでは阿難、お前が自分でそれをチャンナに伝えるように」といわれましたが、阿難尊者は一人でチャンナのところへ行くのを恐れました。というのは、チャンナは大変乱暴者だったからです。

 一人で行くのを恐れた阿難尊者は大勢の仲間とともにチャンナを訪れ、とにかく、釈尊のいいつけをチャンナに伝えたのですが、それを聞いて、チャンナは、(私だけがなぜそんな重い行を受けなければならないのか)と思い、その場で気絶してしまったということです。

 しかし、気がついたチャンナはいままでのチャンナではもうありませんでした。彼は発奮し、別人のように修行して、ついに阿羅漢の位に達したということです。

 乱暴者のチャンナは、それまで人のいうことなど聞く耳を持たなかった。

 しかし、釈尊が自分のために最後にいい残されたことだというので懸命に努力した結果、阿羅漢という当時のもっとも大切な悟りの境地に達せられたのですが、これは釈尊が、こうでもしなければチャンナは修行しないだろう、あるいはこうすればチャンナは修行してくれるはずだという期待をこめた、愛するがゆえの法だったのです。だからこそ、死のまぎわに苛酷な申し渡しをすることもできたのです。

 神や仏は、この人ならばこれに耐えられるであろうという人に試練を与えることがあるようです。その試練に耐えられたとき、その人はさらに偉大な成長をしているのです。「なぜ私だけが苦しまなければならないのか、なぜオレだけが運が悪いのか」

 ときには神や仏を恨みるときもあるものですがいう時には釈尊がチャンナに期待したように、自分もまた期待されているからこそ試練を受けているのだと思えばいいのです。

 相手の能力や状態、その相手に適当な手段を用うることを仏教では方便といっていますが、考えて見ますに現代ではこの方便という言葉がいいかげんに扱われているのではないでしょうか。

 方便というのは正しく導くための手立てなのであり、チャンナもその方便で修行されたわけですが、私達も今一度、方便というものを考えるべき時ではないでしょうか。



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