信仰―法話コーナー

法話

■鏡と神 2000.5.1

 日本の神道で、カミという言葉は、カガミがつまってカミになったといわれるが、鏡のごとく、清浄無垢な心が神の心であり、人間の生まれたままの心である。これを仏教で大円鏡智(だいえんきょうち)と言う。鏡というものは、人がカバンの中に入れていられる様な小さな鏡でも、山に向ければ山が入り、海に向ければ海が入り、空に向ければ太陽でも月でも何千万の星でも、みな入ってしまう。嫌う底の法無しである。何故、入るかといえば、鏡の中は無だからである。

 これほど大きいものはない。鏡の前では人は平等である。金持ちだからといって、奇麗に映ることもなく、貧乏人だからといって、粗末に映りはしない。鏡の前では、全てが平等である。鏡という物は、前に来たままを映す、なぜならば、自分の姿型を持たぬからである。自分と他人の区別なく、全ての物を自分として受けるような、大らかな心が鏡のような心でなければならない。

 「今この三界は悉くこれわが有なり、その中の衆生は皆これわが子なり」と、釈尊は示されたが、世界をそのままわが家と直感される大きな心が、仏の智慧であり、その中の衆生を悉くわが子と受取られる温かい心が、仏の慈悲である。智慧と慈悲が、仏の本質であり生まれたままの純粋な人間性である。そういう心を自覚することも悟りの一つである。
 そう言う清らかな心が、本来の心とわからず常に心の中に妄想執着という偶像を載せておるものを、愚者というのである。自我という根強い妄念執着の偶像を持っていれば、わが身尊し、他を陥れて少しも悔いないのである。そう言う自我を徒らに酷使するより、自我などは本来無いという心を持つ事が、心の真理を悟る事になるのではないでしょうか。

 「人間はみんな生まれながら不生の仏心を持っているが、わが身可愛いから、身びいきがある、身びいきあるから、仏心が現れるのだ。」と むかしの僧侶が言ったと言う。

 他人の悲しみをわが悲しみとし、他人の喜びをわが喜びとしていくところに、仏のおしえが有り、またそれをやろうとする人が、「あの方は人の鏡だ」と言われつづけているのではないでしょうか。清浄にして空なる法を知ることが人としての幸せの 一つではないのでしょうか。鏡にうつった自分に問いかけてみてそれにうつし出された物がその人の答えだと思います。




法話のトップに戻る


NMJ Net Market Japan Corp. galilei@netmarketweb.com