信仰―法話コーナー


法話

■奴隷から自由人へ 2000.1.1

あなたは奴隷じゃありませんね。
まちがいなく自由人ですよね。
その確認からはじめたいと思います。

奴隷と自由人はどう違うのか?もちろん、いまの日本に、本物の奴隷がいるわけはありません。しかし、奴隷根性の持ち主はごまんといるでしょう。いや、現代日本のサラリーマンのほとんどが、どうやら奴隷的存在のように思われます。
ある雑誌に、
 ―“社畜”“社奴”―
といった言葉がありました。家に飼われているのは家畜ですが、現代日本のサラリーマンは会社に飼われている家畜的存在で“社畜”といい、また会社の奴隷だから“社奴”と呼ばれている、と書かれていたのです。その原稿を書いた人がその雑誌の編集者に言われたそうです。「このような言葉はわが社ではタブーなんですよ…」と。

その雑誌はビジネスマン向けのものですから、そういう配慮は当然でしょう。けれども、“社畜”だとか“社奴”といった言葉に敏感に反応するといったこと自体が、現代日本のサラリーマンが「社畜」であり「社奴」になっていることを証明しているのだと思います。自由人であれば、そんな言葉を笑い飛ばせるはずなんです。

なぜわたしが、奴隷・自由人ということを問題にしているかといえば、
 ―奴隷になるな―
 ―自由人であれ―
に尽きると思うからです。仏教の開祖である釈迦がわたしたちに教えられたことは、徹底して「奴隷になるな!」ということでした。
まず、仏教は、われわれに、
 ―欲望の奴隷―
になるな!と教えています。

もっとも、読者はここで早合点をしないでください。欲望の奴隷になるなということは、あらゆる欲望をなくせ、と言っているのではありません。いっさいの欲望をなくせば、人間廃業になってしまいます。人間であるかぎり、欲望を持っているのはあたりまえです。
仏教が言っているのは、欲望の奴隷になるなということで、それは奴隷的な欲望をなくせということなんです。
奴隷的な欲望というものは、例えば、愛煙家にはお気の毒ですが、わたしはたばこがそうだと思います。

たばこというものは一本のたばこを服(の)むことによって、欲望を鎮めることはできません。逆にたばこを服めば、さらにたばこを服みたくなります。つまり、たばこを服むという行為は、次のたばこを服みたいという欲望を生産しているわけです。そういう欲望が奴隷的な欲望です。

これを食欲と比較して下さい。
空腹のとき、めしを食いたいという欲望は、めしを食うことによって解消されます。つまり、食欲は、それを充足すれば解消される欲望です。あるいは、おしっこがしたいという欲望だって、それを充足すれば(排尿すれば)解消されます。誰も<もっと、もっと>とは思いません。しかし、たばこは、服めば服むほど、ますます服みたくなります。<もっと、もっと>となるわけです。そういう欲望が奴隷的な欲望です。

そういえば、お酒だってそうです。昔の人はうまいことを言っていました。
「一杯目は人が酒を飲み、二杯目は酒が酒を飲み、三杯目は酒が人を飲む」と。
体内に吸収されたアルコールが、次の酒を要求します。まさに奴隷的欲望です。こう言えば、たばこと酒がまったく同じになってしまいますが、両者は少し違っていると思います。酒はほんの少しはプラスの面があります。しかし、たばこはまったくのマイナスです。それを服むことによって、何の利益もありません。百パーセントの奴隷的欲望にもとづく商品がたばこなんです。

そういえば、資本主義社会の商品は、多かれ少なかれ奴隷的欲望をつくりだします。なまじ高級車を購入すれば、ますます新しい車が欲しくなります。欲しくなるように、企業は宣伝にこれつとめているのですから、われわれが誘惑に負けるのはあたりまえです。でもね、企業がコマーシャルに投じている宣伝費は、全額ユーザーが負担しているのですよ。つまり、われわれはわれわれの金で、自分の欲望を駆り立てているのだから、世話がありませんね。

いまはただ、紀元前二世紀のローマの政治家であった大カトーの言葉を紹介しておきます。
 『きみの欲しいと思うものを買うな、必要なものだけを買え』
これは、現代資本主義社会にも通じる立派な教訓です。





法話のトップに戻る


NMJ Net Market Japan Corp. galilei@netmarketweb.com