信仰―法話コーナー


法話

    しょうじょう
■笑えぬ猩々の愚かさ 
2000.10.1

 猩々という動物がいる。もちろん、これは古代の中国人がつくった空想の動物であって実際にいるわけではない。海中に棲み、赤くて長い頭髪を持ち、人間の言葉をよく理解するという。そして、何よりも無類の酒好き。

 したがって、猩々を捕獲するには、酒を使う、海岸に酒樽と柄杓(ひしゃく)を並べ、あたりに生えている草を、抜かずにそのまま靴の形に編んでおく。これで準備万端、舞台装置は完了。そのうちに、酒のにおいにつられて、猩々が集まってくる。しかし、彼らは警戒していて、最初は酒を飲もうとしない。どうしようかと迷っているうちに、必ず言いだす奴がいる。「柄杓で飲まなければいいのだ。指でなめる程度であればいい。」「そうだ、そうだ」ということで、指先につけてなめはじめる。それがしばらくすると、「一杯だけなら柄杓で飲んでもいいだろう。」となる。さらに「酔わぬ程度であればいい。」となり、「酔っても、この足元の草で編んだ靴に足を入れなければいい。」ということになる。まあ、そのあとはだいたい想像がつくだろう。「なあに。この靴に足を入れても、踊りださなければ大丈夫。」となって、最後に「一歩だけ、足を動かしてよいだろう」となる。しかし、草の靴は地上に固定されている。足を動かそうとした猩々たちは、そこで全員ゴロリと転んでしまう。そこに人間が現われて、彼らを捕獲してしまうわけだ。

 仏教においては、「不飲酒戒」があって、飲洒が禁じられている。原始仏教聖典には、「酒は人を怠けさせる。酒におぼれる者には六つの禍(わざわい)がある。財産が失われ、口論が増え病気の原因となり、評判が悪くなり、恥知らずの行為をし、さらに、知力が衰える。」と説かれている。又、仏教では、業(ごう)ということを教えている、業の原語はサンスクリット語の"カルマ"で現在の環境を決定し、未来の運命を定めるものとしての善悪の「行為」という意味。しかし、いかなる行為をしても、その行為は次の行為を起こすカを持っている。その「力」のことも、仏教では"業"というのである。

 たとえば、基本的に禁じられてある酒を飲むという業をすれば、その飲んだ酒が次の酒を飲ませる。いい気分になって、もう一杯また、もう一杯。そして、そのもう一杯がさらに次の一杯を飲ませ、今度は、どういった行為をするかわからない。それが業の恐ろしさである。

 だから古人が言っている。「一杯目は人が酒を飲み、二杯目は酒が酒を飲み、三杯目は酒が人を飲む。」最初の業をやめておけば、いいのだ。そうすれば、猩々も捕獲されないですんだのではないでしょうか。



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