信仰―法話コーナー


法話

■「布施」とは貪らない心 2000.9.1

 布施というと、たいていの人は金銭や物を施す財施のことだと思っていますが、それだけが布施ではありません。いつもにこやかな笑顔で他人に接し、やさしい言葉をかけてあげるのも、あるいは電車のなかで席を譲ってあげるのも、やはりひとつの布施行です。
 ある人が「赤ちゃんが重たそうなので、俺が席を譲ってやったのに、最近の若い親は感謝もせん」と怒ってましたが、これは「小さな親切」と布施をとりちがえています。
 「小さな親切」には、「俺がおまえを助けてやったんですぞ。俺に感謝しろ」といったような思いがないともいえません。
 つまり「小さな親切」は人のために席を譲ってあげるわけですが、布施は自分のためにします。つまり感謝するの「は、席を譲られた人ではなく、席を譲った人なのです。 我が国の鎌倉時代の僧侶がつぎのようなことをいわれています。
 「布施といふは貪らざるなり。我物に非ざれども布施を障へぎる道あり。」(『修証義』)
 つまり布施というのは貪らないことです。だから自分の物でなくても布施をすることができる道理があります。そして恩着せがましい気持ちで施しても、それは布施になりません。
 施しが真に仏教的な布施になるためには、施したほうが受け取った人に感謝の気持ちを抱くことではないでしょうか。「受け取っていただいてありがとう」という気持ちで施さないと、真の布施ではありません。
 しかし、いずれにしても、施しをするのが布施です。それが私たちが思っている常識です。ところがその僧侶によると、貪らないのが布施だといいます。私たちが持っている、「欲しい、欲しい」といった心、貪欲の心を抑えるのが、その僧侶によると布施なのです。
 そういわれると、たしかにそのとおりだと思います。与えることだけが布施だとすれば、与える財物を所有していない貧しい人は布施ができません。
 しかし、布施はだれにでもできるものでなければならないので、財物を所有しない人ができないというのはおかしいのです。布施は、その僧侶がいわれるように解釈したほうがよいでしょう。
 その意味では、貧しいけれども貪りを捨てた人たちは、「欲しい、欲しい」といった心を抑えているので、資源やエネルギーを節約するといったかたちで、われわれに布施をしてくれているのです。
 資源やエネルギーを浪費し、貪ってばっかりいるわれわれ大国の人間は大いに反省しなければなりません。



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